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第8回 武士は食わねど・・・

貧しさに耐えた、武士達の家計事情

前回の、江戸時代の物価と江戸っ子の生活ぶりの話に続き、今回は、同じ時代の武士の家計事情について紹介していこう。

文中では特に断りのない限り、仮に現代の金額に換算する場合、わかりやすく1石=米2.5俵=金1両=約12万円としている。ただし、実際には江戸初期と後期では物価や換算率などに違いがある。

ある江戸の御家人が遭った事故

江戸時代後期頃のこと、江戸で1人の御家人が、自宅裏山の崖崩れで土に埋まり、圧死したという事故があった。江戸は、山の斜面を背にした武家屋敷が多かったため、運悪くたまたま崖崩れにあったのだろうと思われたのだが…、その後、世間ではこんな噂が流れた。「崖崩れで亡くなった御家人は、屋敷の庭の土や、裏山の崖の土を取って、ひそかに土壁用に売って金にしていたらしい」と。そこまでして金儲けがしたかったのか、というとそうではない。実はこの時代、御家人の多くは窮乏していた。彼も恐らく家計の足しにと考えて土を売ったのだろう。

※上記は、江戸後期の情報記録家、藤岡屋由蔵(ふじおかやよしぞう)による『藤岡屋日記』に書かれていたエピソード。

江戸時代の武士の年収はどれくらい?

では、そんなに苦しかった武士の収入とはどのようなもので、年収はいくら位だったのだろうか。その前に簡単に江戸時代の武士について整理しておこう。

武士がもらう給料は主に米で支給されていたが、その形態は少々複雑だ。旗本・御家人への支払方法には、大きく分けて、知行取(ちぎょうどり)蔵米取(くらまいどり)の2つがある。知行取とは、主に旗本への支給方法で、各自に領地が与えられてそこの農民から年貢を取る形のこと。石高が多いほど収入も多くなるが、その年の収穫によって実収入に影響が出るという側面もあり、また、この知行取の方法がとられていたのは、旗本・御家人総数の1割程度の者にすぎなかった。一方、蔵米取は、幕府の直轄領より収納した蔵米から、働きに応じた分の米が支給される方法。この米は切米(きりまい)と呼ばれ、蔵米取の俸禄は、1年あたり「切米100俵」といった具合に表され、玄米の形で分割支給された。

ほかには、この知行取や蔵米取に、扶持取(ふちどり)といって、家族や家来を扶養するための扶持米が月々付随するケースなどもあった。一方、各藩の藩士の給料の支給も同じような形で、知行を与えられる形と切米が支給される形とがあった。

直臣の中で旗本や御家人がどのくらいいたのかというと、1722年(享保7年)では、旗本5205人、御家人1万7399人であったという記録がある。旗本といっても、9500石からわずか15石くらいまでその格はさまざまだったが、最も多いのは100石〜300石くらいの層。この層が旗本全体の半数近くを占めていた。一方、御家人はほとんどが50石未満だった。

では具体的に、旗本の中で最も多かったといわれる知行200石くらいの例で収入を計算してみよう。この場合、200石の知行地から四公六民で年貢を40%分取るので、知行分の収入は80石。江戸中期の換算率(1石=米2.5俵=金1両)を使って計算すると、この旗本の場合、知行分収入だけで米200俵、つまり80両となる。これを、仮に金1両=約12万円として現在の金額に換算してみると960万円くらいだ。収入としては、このほかに、家族と雇っていた家臣の人数に応じ扶持米が若干支給された。また何かの役に就いていれば職禄が加算されることもあった。

また、50石程度の御家人の年収は、収入は20石分で50俵=20両。現代の金額に換算すると知行分で約240万円ということになる。多くの御家人たちの収入がこの程度だったとすると、職人などの江戸っ子の収入と比べて、何となく少なめに感じられる。

地方に住む藩士も、やはり下級武士の年収は少なかった。ただ、江戸のような物価高に悩まされることがなかった分、若干余裕があった。ただし、切米取りの下級武士が江戸詰(藩主の参勤交代のため江戸に単身赴任すること)になった場合、かなり手当が減らされ、それを機に窮乏したり、借金せざるを得なくなったりというケースもあった。

<コラム>おなじみのヒーロー達の石高は?

ちなみに、時代劇や小説などでお馴染みの江戸時代の人物は、どのくらいの石高だったのだろう。大岡裁きで有名な町奉行大岡忠相(おおおかただすけ)は、養父の後を継いだ時点で1920石の旗本、「遠山の金さん」で知られる、同じく町奉行遠山金四郎は500石の旗本、小説「鬼平犯科帳」の火付盗賊改方・長谷川平蔵は400石の旗本だ。また、幕末、江戸幕府の幕引き役となった勝海舟が生まれたのは、わずか41石の御家人の家だった。

彼らの年収を、単純に知行分で200石の旗本と比較すると、大岡忠相が約10倍、遠山金四郎は約2.5倍、長谷川平蔵は約2倍ということになる。また、勝海舟の生家では5分の1程度の16.4両、今の金額に換算して約196.8万円くらい。直臣の7割以上を占めた御家人はほとんどが50石未満であったから、この金額は彼らの年収に近いかもしれない。

戦がなくても家来は必要?武士の支出が多かったワケ

では、石高の多い旗本は暮らしが楽であったかというとそうでもない。実は、武士は、武士であるというだけで非常に支出が多くなってしまう理由があった。そのため、収入が多くても家計はなかなか楽ではなかったのだ。

その理由の一つは軍役にかかる支出の多さだ。平和な江戸時代でも、武士は戦に備え、常に家禄に応じた家臣を雇っていなければならなかった。たとえば、さきほどの200石の旗本が義務付けられていた軍役は5人。今の金額で約1000万円の年収の中から、5人分の給料、食費などの人件費を捻出しなければならなかった。この義務は、100石では2人、300石では7人、500石では11人、1000石では21人、と、家禄が多いほど家来をたくさん雇う必要があった。さらに、馬を飼ったり、女性の使用人を雇ったり…、こうした支出が家計を圧迫していたのだ。

さらに、武家社会では、交際費、儀礼費、寺社祭祀費、屋敷の修繕費などに、多額の出費が必要だった。これは、武士がその格を保つためにどうしても必要な費用で、ケチったり、削ったりすることはできなかった。

下級武士では収入が少ない、かといって出世すれば収入に比例して支出が増える。とにかく、武士とは、武士であるというだけで、常に家計が苦しい身分だった。

副業にいそしんだ武士たち そして明治維新

では、武士たちは、どのようにしてこの苦しさをしのごうとしたのか。冒頭の御家人のように、土を売った武士はあまりいなかっただろうが、旗本といえども窮乏して娘を吉原に売ったとか、御家人がご禁制の賭場を開帳して儲け、処罰を受けた、などという話も残っている。また、内職をして生計をたてるのは当たり前で、江戸では、屋敷の庭で金魚やスズムシ、コオロギなどを飼育する武士もいた。また、藩によっては内職を指導して、地方の名産として売り込みをはかるところもあった。米沢織、小田原提灯、尾張ロウソクなどがその例だ。

また当然ながら、札差(※3)から借金する武士も多かった。札差は高金利で族本、御家人たちに金を貸し、やがて強大な財力を背景に武士を圧倒していった。士農工商の身分でいえば武士が最も偉かったのだが、札差は経済力で完全に武士を圧倒し、栄華を極めたのだった。

江戸時代には、身分制度の中で特権的な地位にいた武士だが、後の明治維新で、武士はその特別な身分を失ってしまう。武士の中にはそのことに抵抗する者もいたが、それでも、意外とスムーズに新しい身分制度に移行できた背景には、軍役費用や儀礼費による圧迫が限界に達して、多くの武士がその身分から解放されたいと思っていたからではないか、という説もある。

※3 札差(ふださし)
 札差はもともと、武士の俸禄米の受領から売却にいたるまでの面倒な手続き一切を旗本・御家人に代わって請負っていた商売。札差という呼び名は、保管をする米俵に「○○様のお米です」と木の札を差していったことに由来する。札差は次第に金融業に近い存在となり、武士に利子をつけて貸付を行うようになった。やがて札差は強大な財力を持つようになった。しかし寛政の改革で幕府が出した「棄捐令」で、この札差の総額120万両にも及ぶ旗本の借金を棒引きにされたことが打撃になり、札差は次々と店を閉めていった。

参考資料

  • PHP研究所『目からウロコの江戸時代』武田櫂太郎
  • 実業之日本社『大江戸「懐」事情 知れば知るほど』小林弘忠
  • 日本文芸社『数字で読むおもしろ日本史』淡野史良
  • 時事通信社『大江戸まるわかり事典』大石学
  • 新潮社『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』磯田道史
  • 日本放送出版協会『NHK知るを楽しむ 歴史に好奇心 6-7月』藤本義一、磯田道史

ほか

※記事内容はとくに記述のあるものを除いて、2006年11月8日現在のものです

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