発掘!お金の話

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第9回 江戸城本丸―「大奥」のお金の話

秘密のベールにつつまれた「大奥」の生活をお金で見てみよう

江戸時代、江戸城本丸には、一人の将軍のために1000人近くの女性が住み込みで奉公するという特異な組織、「大奥」があった。今回は、大奥で働いた女性たちのお給料、そして莫大な経費など、大奥のお金について見てみよう。

文中では特に断りのない限り、仮に現代の金額に換算する場合、わかりやすく1石=金1両=約12万円としている。ただし、実際には江戸初期と後期では物価や換算率などに違いがある。

大奥ってどんなところ? 奥女中たちの仕事とは・・・

「大奥」は、将軍の世継ぎを絶やさないために2代将軍徳川秀忠が作り、3代将軍家光の時代に完成した。男子禁制で一般の社会から隔絶されたこの「大奥」には、下働きも含め1000人もの女性が奉公しており、その特殊性、規模ともに世界に類を見ないシステムであったといえる。

まず、大奥のあった江戸城の本丸について説明しておこう。江戸城の中核をなす本丸は「表(おもて)」「中奥(なかおく)」「大奥(おおおく)」の3区画に分かれ、「表」は政庁のような場所、「中奥」は将軍の官邸のような場所だった。そして「大奥」は、将軍が妻妾とともに住むいわば私邸であったが、ここが江戸城本丸の約56パーセントをも占め、何と敷地面積は6千坪以上もの広さであった。この「大奥」に、約250人の奥女中と部屋方(へやかた)と呼ばれる下働き、合わせて1000人近くの女性が暮らしていた。

彼女達の職制を見てみると、まず、「お目見え以上」「お目見え以下」「部屋方」の3つに大きく分類される。「お目見え以上」は、将軍にお目見えできる奥女中、「お目見え以下」は将軍にお目見えできない奥女中で、それ以外に、格上の奥女中が雇っている、「部屋方」という女性がいた。職制はお目見え以上、お目見え以下の中でもさらに細かく分けられ、各職名と職務内容は表1のようになる。

表1 大奥女中の職制
  職名 仕事内容
お目見え以上 上臈御年寄
(じょうろうおとしより)
大奥で最高位のポジション。将軍・御台所(みだいどころ・将軍の正室)の側周りの御用を務める。
御年寄
(おとしより)
大奥全体の取締りをする。大奥で一番の権力者。
御客会釈
(おきゃくあしらい)
将軍が大奥へ来たときの接待、諸大名の女使の接待など。
中年寄
(ちゅうどしより)
御台所付き御年寄の代理役。御台所(おだいどころ)の献立チェックや毒見など。
御中臈
(おちゅうろう)
将軍・御台所の身辺の世話役。通常この中から側室が出る。
御小姓
(おこしょう)
御台所付きで、煙草や手水などの世話をする小間使い。13、4歳の少女。
御錠口
(おじょうぐち)
錠口の見張りや取次ぎ役。
表使
(おもてづかい)
食品・物品の買い物を御広敷の役人に調達させる。
御右筆
(ごゆうひつ)
日記、文書、記録執筆作成と献上物のチェック。
御次
(おつぎ)
仏間、台子、道具などの整備。催し事の際の遊芸役。
御切手書
(おきってかき)
面会者や女性の用達商人など検査する。
御伽坊主
(おとぎぼうず)
将軍付きの雑用係で、剃髪姿で羽織袴を着ている。本丸中全ての出入りが可能。
呉服之間
(ごふくのま)
将軍・御台所の召し物の裁縫専門。
お目見え以下 御三之間
(おさんのま)
御三の間以上の部屋の掃除一切、火や水の管理ほか、雑用一切。
御広座敷
(おひろざしき)
表使の下働き、御膳ゼン部の世話など。
御仲居
(おなかい)
御膳所に詰めて煮炊きを取り仕切る。
御火之番
(おひのばん)
昼夜問わず奥女中の部屋を巡回して火の元を注意する。
御茶之間
(おちゃのま)
御台所の食事中の湯茶を整えて納める。
御使番
(おつかいばん)
御広敷御錠の開閉、外部との取次ぎなど。
御末
(おすえ)
水汲み、掃除などの雑用。
(員外) 御犬小供
(おいぬこども)
給金なしで雑役に従事する。
部屋方(へやかた) お目見え以上の奥女中が自分の身の回りの世話をさせる。局(つぼね)、合の間(あいのま)、小僧、タモン、ゴサイと呼ばれる階級もあった。

※それぞれの役職は将軍付きと、御台所付きがいる。ただし、御客会釈、御錠口、御切手書、御伽坊主、御広座敷は将軍付きのみ、中年寄、御小姓、御茶之間は御台所付きのみの役職である。

※上臈御年寄・・ポジションは最高位だが政務にはあまり関わらない立場であった。御台所付きの上臈は、輿入れの際に里方から随従してきた公卿の娘が就いたという。

一生奉公と守秘義務

この時代、大名屋敷などへの奉公は、良縁に恵まれる良い経歴になるということで、富裕な町人や農民などはこぞって娘を奉公へ出していたのだが、大奥は特別で、奉公に上がるにはそれなりの身分、そして縁故などが必要だった。まず、お目見え以上の奥女中になるには、原則、親許(おやもと)がお目見え以上の旗本でなければならないという制限があった。お目見え以下の奥女中や部屋方であれば、お目見え以下の旗本・御家人の娘や町人の娘でも奉公することができたが、どちらにしても、奉公先として人気のある大奥にはコネがなければ上がれなかった

ところで、大奥に新規採用された女中は、必ず誓詞に血判をしなければならない。その誓詞の条文には、「一生奉公(奉公は生涯つとめるもの)」の原則がうたわれている。実際、お目見え以上の女中となると宿下がり(やどさがり※)すらあまりできず、生涯結婚も異性との恋愛もできなかった。将軍のお手つきともなると、生涯江戸城から出ることはなかったという。一方、重要な役職には就かず、将軍の寵愛にもあまり縁のなかったお目見え以下では、そうでもなかったようだ。宿下がりもできたし、実家へ戻ってから結婚することもできた。そのため、お目見え以下は、大奥というステータスが得られる行儀見習い先という見方もあり、奉公先として人気を集めた。

また、誓詞には、「大奥で見聞きしたことを、親兄弟はもちろん、いっさい外部にしゃべってはいけない」という守秘義務もあった。これほど多くの女性が奉公したにもかかわらず、明治維新まで大奥の実態がほとんど語られていないのはこのためといえるだろう。

多くの女性たちの中で将軍の添い寝役は、たいてい将軍付きの御中臈(おちゅうろう)の中から選ばれた。将軍のお手つきとなり男の子を産むと「御部屋様(おへやさま)」、女の子を産むと「御腹様(おはらさま)」として、それぞれ部屋が与えられた。そして御中臈は、30歳になると「御褥(おしとね)御免」といって将軍の相手を辞退することになっていた。当時は高齢出産が危険だったので、30歳以上の女性の身体への配慮がなされていたようだ。

ちなみに、江戸時代を通して、正室と側室を合わせた数が一番多かったのは徳川家康の21人で、子供の数は19人だった。また、子供の数が一番多かったのは11代将軍家斉で、子供の数は53人。妻妾の人数は17人だった。

※宿下がり・・自宅に数日帰ること。お目見え以上の女中は親の重い病気のときか、自分が病気のとき以外許されなかったが、お目見え以下の女中たちは、奉公に出てから3年目に6日間、6年目に12日間、9年目以上になると16日間宿下がりができた。

めざせ高給奥女中! 大奥の給与と昇進システム

ところで、幕府から雇われ一生奉公をする奥女中たちの給料はどのようなものだったのか。まずは、手当ての受け取り方を見てみよう。次の5種類の手当てがある。

御切米(おきりまい) 本給的なもので、米で支給される。いわば年俸。
御合力金(ごこうりょくきん) 衣装代の特別手当で、現金(小判)で支給される。
御扶持(おふち) 本人と、自前で雇う下働きの分の食料。米で支給される。
薪・炭・油・湯の木 暖を取るため、風呂用などの燃料。現物支給される。
五菜銀(ごさいぎん) 味噌や塩を買うための手当て。現金(銀)で支給される。

では、奥女中たちの給与がどのくらいであったか、具体的に給与の明細を見てみよう。次の表は江戸後期頃の奥女中の給与明細である。時代によって変遷はあるが、この表から彼女たちのだいたいの年収がイメージできるだろう。

表2 寛政年間(1789〜1800年)の大奥女中の給与(年収)
  (1)御切米 (2)御合力金 (3)御扶持 (4)薪等の現物 (5)五菜銀 (1)(2)(3)
合計
換算すると
上臈御年寄 100石 100両 15人(男扶持7人、女扶持8人、約21.5石) 薪30束、炭20俵、湯の木50束、油7升2合 300匁 約221.5両 約2658万円
御年寄 50石 60両 10人(男扶持5人、女扶持5人、約14.6石) 薪20束、炭15俵、湯の木35束、油4升2合 200匁
1分
約124.6両 約1495.2万円
御中臈 12石 40両 4人(男扶持1人、女扶持3人、約5.1石) 薪10束、炭6俵、湯の木19束、油3升 124匁
2分
約57.1両 約685.2万円
表使 12石 30両 3人(男扶持1人、女扶持2人、約4.0石) 薪10束、炭6俵、湯の木7束、油3升 124匁
2分
約46.0両 約552万円
御末 4石 2両 1人(女扶持1人、約1.1石) 薪3束、炭なし、湯の木2束、油6合 12匁 約7.1両 約85.2万円

※大奥女中の給料の額は一定ではなく、時代により増減があった。

※(3)御扶持は、役職によって雇える人数を表し、実際に雇うかどうかにかかわらず、男扶持は1日あたり米5合、女扶持は1日あたり米3合支給された。また、大奥では実際に雇った下働き(部屋方)は全て女性であった。

表の中で、上臈御年寄(じょうろうおとしより)から表使(おもてつかい)までは、お目見え以上の奥女中の給料で、御末(おすえ)はお目見え以下で最も格下の奥女中の給料だ。わかりやすいように、御切米、御合力金、御扶持の合計額を年収として、現代の金額に換算して見ていこう。

まず、最上級の上臈御年寄では、1両=12万円として今の金額で換算すると、年収が2000万円以上で、女性としてはかなりの高給取りであったことがわかる。また、大奥では最も実権を持っていた御年寄(おとしより)も、1500万円近い年収があった。御年寄はさらに、役得で町屋敷を拝領していたので、それを他人に貸して副収入を得ることができた。このクラスの奥女中は、大奥内で別格といっていいほどの収入があったようだ。

将軍の側室候補ともいえる御中臈の年収は600万円台。御年寄などに比べると年収自体は少ない。とはいえ、この役職は、もし将軍の寵愛を受けることになったり、世継に恵まれることになったりすれば、自分も一族もこの上ない富と栄誉が得られるわけで、運次第で生涯賃金が大きく変わる、絶妙なポジションであったといえる。

表使は額面的には御中臈より少なめで、年収500万円台。ただし御年寄と同じく役得で町屋敷を拝領し、副収入を得られたので、実際の収入はもう少し多かったようだ。

最も格下の御末は、年収は100万円以下になる。御末の仕事は水汲みなど、肉体労働が多くたくさん汗もかいただろうが、お風呂用の湯の木なども格上の女中に比べてはるかに少なく、何となくかわいそうな印象を受ける。それでも、御末の年収は、当時の町家の住み込み女中の倍以上もあったので、当時の女性にとって大奥は、高給をもらえる恵まれた職場であったといえるだろう。

ところで、大奥内での昇進は、基本的に欠員が生じたときに御年寄などの推薦があって決まることが多かった。大奥に奉公に上がるときに、新人女中たちは自分の世話親を選ぶ。このとき力のある奥女中に世話親になってもらえば昇進しやすかった。つまり、仕事の実力よりも、世話親の引きが重要だったのである。

大奥が奉公先として人気があったことは先にも述べたが、特に家計の窮乏に苦しんだ武士の家では、口減らしになり、仕送りも期待できるため、大奥奉公に出る娘はまさに家計の救世主であった。出世して年俸が上がれば、本人も生家にいるときより贅沢な暮らしができるし、蓄えもでき、老親の面倒を見ることもできる。収入面ではかなり魅力的な奉公先であったのだ。

しかし一方、お目見え以上になれば結婚もできず、休暇をもらって実家へ帰ることもままならない。出世や権力争い、嫉妬が激しい世界の中で一生働くというのは、高収入であっても相当な覚悟が必要だっただろう。

無駄遣いを大幅削減! 財政大改革の方法とは

1000人もの女性たちが属する巨大な大奥では、かかる経費も莫大なものだった。特に幕末頃には年間予算が20万両、今の金額に換算すると約240億円にも膨れ上がっていた。さらに、皇女和宮(かずのみや)が大奥に入った1862年以後は、予算が毎年4〜5万両も超過するようになってしまったため、大奥の財政改革、経費節減が断行された。

もともと大奥には無駄使いが増える構造もあった。たとえば、御広敷御台所(おひろしきおだいどころ)とその下の賄い方で、魚を20匹料理する場合には余分に100匹くらい買い、良くないものを捨て、捨てた魚を役得として賄い方が持って帰る。このようなことが、多くの部署で毎日のように行われていた。また、大奥の御用達品(食品や日用品など)は、役人への賄賂が価格に上乗せされて、通常より高い価格になっていた。

そして、この財政改革では、主に次のようなことが行われた。

  1. 御台所(みだいどころ・将軍の正室)のお召し物は洗い張りをし、見苦しくない場合引き続き着用
  2. 上臈御年寄から御末までの減禄
  3. 朝夕の湿気払い、病気よけのために朝夕焚いていた杉の葉は1日30両(約360万円)もするので廃止
  4. 詰所、廊下などの金網行灯(あんどん)の張替え、障子破れの繕いは日々するのではなく1ヵ月に1度に改める
  5. 盆・暮れ2回の畳替えをやめて、12月に年1回とし、場所によっては裏返して使う

このほかにも、筆、墨、紙、薪、油などを節約したり、廊下行灯の数を減らすなどした。また物品類は、安いと認められれば御用達町人以外の商店から購入するようにもなった。細かいところでは御台所(和宮)の煙草代の節約。当時、御台所の煙草代は1日あたり3両2分(約42万円、1分=1/4両)、1ヶ月分にして約105両(約1260万円)以上もかかっていたのだが、これを1ヶ月あたり10両2分(約126万円)に改め、煙草の量を減らした。

こうした努力の甲斐あって、24万両以上にもなっていた大奥の経費は17万両にまで減った。何と3割も削減できたのである。しかし、この改革のわずか数年後に明治維新となり、1868年4月に江戸城はあっさり官軍に明け渡された。徳川幕府とともに続いた大奥は、こうして260年余りの幕を閉じたのであった。

<コラム>吉宗自ら行った大奥改革の大成功

幕藩体制の立て直しのために、8代将軍徳川吉宗が行った「享保の改革」。彼は"聖域"であった大奥の改革にも着手し自ら人員整理を行ったのだが、そのやり方はユニークなものであった。

吉宗はまず「25歳以下の容貌の優れた奥女中を選び出すように」と命じた。御年寄たちは、吉宗が側室を探しているのだろうと思い、さっそく容貌の優れた若いお目見え以上の奥女中を選りすぐった。また奥女中たちも、将軍の側室になれるチャンスとばかり、化粧に励み、御年寄に売り込みをはかった。そしてまもなく、選ばれた奥女中たちが一同に集められたが、その場で、吉宗は「今日限り皆に暇を使わす」と言い、若い美女たちを全員退職させてしまった。

吉宗は、『若く容貌の優れた女性なら、実家へ戻っても良縁に恵まれる。大奥で一生奉公するより幸せだろう』と考えたのだった。また、容貌の優れた女性はおしゃれをしたがり倹約できないから、という理由もあった。

ともかくこのリストラは、美女だから辞めさせられた、ということで苦情も出ず、スムーズに事が運んだという。その後、吉宗は大奥に質素、倹約、品行方正を求めることができ、かくして大奥改革は大成功に終わったのだった。

参考資料

  • PHP研究所『目からウロコの江戸時代』武田櫂太郎
  • 日本文芸社『数字で読むおもしろ日本史』淡野史良
  • 時事通信社『大江戸まるわかり事典』大石学
  • 原書房『大奥よろず草子』由良弥生

ほか

※記事内容はとくに記述のあるものを除いて、2006年12月7日現在のものです。

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