発掘!お金の話

詳細はこちら 資料請求・ご加入に関するお問い合わせ 0120-497-775

第10回 日本の埋蔵金伝説

日本国内には現在、北海道から沖縄まで全国に数百もの「埋蔵金」伝説があるといわれる。中でも、最も知名度が高いもののひとつが、幕末に幕府が埋めたという「徳川埋蔵金」伝説。今回は、この徳川埋蔵金をはじめ、多くの日本の埋蔵金伝説について見てみよう。

知名度1! 徳川埋蔵金伝説の発端

もともと知名度が高く、これまでテレビ番組や雑誌などで何度も取り上げられてきた「徳川埋蔵金」伝説。この伝説の発端は慶応4年(1868年)4月11日、江戸城無血開城の日に始まる。その日、西郷隆盛ら官軍は江戸城に入ると、まず江戸城の金蔵へと向かった。目指すは徳川幕府の御用金。明治新政府はすでに財政難であったため、徳川幕府が保有していたと思われる莫大なお金を当てにしていたのだった。 ところが―。

なんと江戸城の金蔵は空だったのだ。新政府は早速御用金の探索を開始した。おそらく徳川幕府が密かに運び出し、どこかに隠匿したのだろう。こう判断した新政府により、幕府の隠し金探しが始まったのである。

伝説は事実か?120年も続く埋蔵金の発掘

新政府は、大政奉還当時の勘定奉行であった小栗忠順に幕府の金を隠匿したという疑いをかけた。しかし、その小栗は、領地であった上野国(群馬県)の権田村で、江戸開城の数日前にすでに新政府軍によって処刑されており、結局隠匿の事実は判明しなかった。御用金は新政府軍の手に渡らずじまいとなったのである。

しかし江戸城開城の前年、地元の農民たちにある出来事が目撃されていた。現在の群馬県渋川市赤城町(旧勢多郡赤城村)で、利根川の岸から船で大きな荷物が揚げられ、武士たちにより赤城山麓へ運ばれていったというのだ。この大きな荷物こそが幕府の隠し金ではないか、そして赤城山麓に隠されたのではないか、という噂がこの地で広がった。こうして赤城山麓の徳川埋蔵金伝説が生まれたのである。

さらに、埋蔵実行に関わったというメンバーの1人、中島蔵人(なかじまくらんど)が、次のような内容を臨終の際に言い残している。この御用金埋蔵を企画したのは、当時の大老・井伊直弼で、実行役は自分のほか、小栗忠順や軍学者・林ユ梁(はやしかくりょう)など、わずか数人であった。また、赤城山麓に埋められた金額は約360万両。そして、井伊直弼が埋蔵を企てた理由は、国内でも国外でも情勢の危うかった当時の徳川幕府がいざというときに必要な軍費を備蓄するため、そして諸外国へ金銀や徳川家の財宝が流出するのを防ぐためだったという。

ちなみに、埋蔵金額360万両というのが事実だとすれば、仮に1両を12万円として現代の金額に換算すると、4000億円以上という額になる。もちろんこれは当時の価値として換算した場合の金額。もし大判・小判といった貨幣の現物が発掘されれば、内容次第ではあるが、骨董的な価値はもっと高額になるだろう。

ただし、埋蔵金の存在自体を疑う説もある。そもそも江戸時代、幕府は何度も財政改革を行わなければならないほどの財政難であったし、この当時は軍事力増強のため巨額の費用を投じていた、だから幕府が360万両も持っていたとは考えられない、というのだ。しかし、埋蔵金のありかを示す物証らしきものもいくつか発見されており、こうした裏付けや言い伝えが、この伝説の信憑性を支え続けているのである。

こうして、赤城山の埋蔵金伝説を事実と信じる人々の手によって、120年経った現在でも赤城山周辺での発掘が継続している。特に3代に渡って埋蔵金を探し続けているという水野家の水野智之さんについては、テレビ番組などで知っている人もいるだろう。この埋蔵金探索については、ドキュメンタリー映画もつくられ昨年9月に公開されている(※1)。また赤城山麓は本来の埋蔵地の囮であるという説もあり、同じ群馬県の、みなかみ町猿ヶ京温泉や旧三国街道永井宿付近、沼田街道沿いの片品村、ほか、北関東周辺の多くの場所でも発掘が続けられている。

※1エンターテイメント・ドキュメンタリー映画「あたえられるか否か〜徳川埋蔵金120年目の挑戦〜」 2006年9月に渋谷で、10月に大阪でロードショー。現在、上映はされていないが、2007年3月にDVDが発売。
【監督】安部一世 【出演】徳川埋蔵金掘り3代目水野智之 他
【配給】ワイヤーワークス 詳しくは公式HPをご確認ください(http://wireworks.jp/maizokin/

日本の埋蔵金伝説は100以上

この徳川埋蔵金以外にも、日本全国には数々の「埋蔵金」伝説がある。そしてある程度の裏付けがあるものだけでも100を超えるといわれている。埋蔵された時代は、古くは奈良時代から最近では第二次世界大戦頃までさまざまな時代にわたる。

これらの埋蔵金伝説の中には発見されたものもあるが、未だに発見されていないものも多い。また、伝説とは無関係に、工事現場などで土を掘り起こしている最中に突然小判や銭などが発見され、その後の調査で埋蔵のいきさつがわかったものもある。

実際に国内で発掘された埋蔵金で最大といわれるのは、1963年8月に東京都中央区新川1丁目で発見された小判1,900枚、二朱金78,389枚。ビルの増築工事中に工事を請け負っていた作業員が、地中1.5メートルから出てきた煉瓦敷きの下から、天保二朱金や天保小判の入ったガラス瓶を数本発見したものだ。当時の天保小判、二朱金の価値で、合計6,000万円強の計算になったそうだが、現在の価値に直せば6億円くらいかもしれない。この埋蔵金は、江戸時代中期から終戦の年までこの地にいた、酒問屋の代々の当主によって蓄財された財宝だったことが証明され、その酒問屋の十代目にめでたく財宝が引き渡され、発見者には報労金が現物支給されたという。

今までに発見された埋蔵金を見ると、その埋め方もさまざまだが、先ほどの例のように瓶やカメなどの容器に入れてあることが多い。木箱に入れた場合では、木が腐ってしまって中身だけになっていることもある。また埋蔵金は貨幣ばかりでなく、金や延べ棒、砂金や宝飾品が埋められていることもある。

誰が、何のためにお金を埋めてきたのか

これら埋蔵金の伝説を分類していくと、だいたい埋蔵は次のような理由でなされているようだ。

主な埋蔵理由とその事例

敗戦した武将が、将来再起する軍資金を隠すために埋めた
例)豊臣秀吉の黄金
【埋蔵場所】兵庫県川辺郡猪名川町多田銀山
【埋蔵時期】室町時代末期〜江戸時代初期
朝鮮出兵後に病の床についた豊臣秀吉が、淀殿と秀頼の将来を案じ、大阪城内の金蔵にあった大判4億5千万両と金塊3万貫を多田銀山に埋蔵したといわれる。戦後発見された秀吉の秘文書から判明したが、いまだに発見されていない。
武将が、一時保存や子孫に残す目的で隠し資産を埋めた
例)結城家の埋蔵金
【埋蔵場所】茨城県結城市大字結城、栃木県河内郡河内町など
【埋蔵時期】江戸時代初期
結城家に伝わる奥州藤原氏ゆかりの財宝(黄金)を徳川家康が狙っていると予想した結城晴朝(ゆうきはるとも)が、北総から越前福井へ転封(移転)を命じられた際に、竿金二万五千本などを埋蔵したといわれる。その後、家康や8代将軍吉宗により、さらに明治時代以降現在まで断続的に発掘されているが、いまだに発見されていない。
豪商が、一時保存や子孫に残す目的で隠し資産を埋めた
例)前野小平治の埋蔵金
【埋蔵場所】愛知県知多郡南知多町
【埋蔵時期】江戸時代後期
備州内海の回船問屋、前野小平治(こへいじ)が、尾張藩が自分の店の取り潰しを画策していることを察知し、対抗するために大判・小判など、めぼしい財宝のすべてを埋蔵したといわれる。後に、末裔が傾いた家を立て直すため発掘を試みたが、いまだに発見されていない。
山賊や海賊が、盗んだ金品を一時的に隠すために埋めた
例)鳴門茂衛門の埋蔵金 【埋蔵場所】香川県小豆郡小豆島水神社 【埋蔵時期】江戸時代初期 瀬戸内海の大海賊・鳴門茂衛門が、稼いだ財宝の大半を小豆島の2つの洞窟に隠したといわれる。ところが本人が子分に殺され、残った子分のうち2名が財宝を探したが発見できなかった。明治時代に発掘が行われるも、1つの洞窟と小判12枚、白骨しか発見されていない。

このほかに、自ら意図を持って埋めたのではなく、事故や天災で紛失、埋没してしまった埋蔵金もある。たとえば船が沈没して、貨幣が水没してしまった場合などである。いずれにしても、銀行や頑丈な金庫がなかった時代、意思を持ってお金を隠す、備蓄するのに手っ取り早く安全であったのが、「埋蔵」という手段だったのだ。

保管や備蓄の目的で埋めたと見られる埋蔵金を見ると、その埋蔵時期は戦国時代や幕末、そしてごく最近では第二次世界大戦の終戦頃など、戦争の時期や時代の転換期であることが多い。またそれ以外の時期でも、たとえば豪商の埋蔵伝説などを見ると、それまでうまくいっていた藩主との関係が悪化するなど、何か個人をとりまく状況が変わりそうなときに埋蔵が行われるケースがみられる。つまり、平常時には地上に出していても安全だった財産を、状況が大きく変化するときに、危機を察知して地中に隠し、保全したのである。

こうした埋蔵では、多くの場合、後に子孫や信頼できる者が掘り起こすことを考え、身近な者にこっそり埋蔵場所を言い伝えたり、手がかりとなるものを残したりしている。ところが、言い伝えられた者が亡くなったり、手がかりを紛失したり焼失したりした場合は、掘り起こされず埋もれたままになってしまう。発見できない埋蔵金の多くはこうしたケースなのだ。

このように埋蔵金とは、単に金銭的な価値があるだけでなく、数々のエピソードを秘めた奥深いものだ。そしてそこからは、古の人々のお金や財宝に対する考え方や、時代の転換期の人間ドラマがうかがい知れる。だからこそ、埋蔵金伝説は、現代においてなお多くの人々を惹きつける魅力を持っているのだろう。

<コラム>埋蔵金を発見したらどうなるの?

現在の法律では、埋蔵金は「遺失物法」の取り扱いを受ける。埋蔵金を発見したら、道端でお金を拾ったときと同じように、すぐに警察に届けなければならない。

では届け出られた埋蔵金はどうなるのか。

6ヶ月以内に埋蔵金の所有権を持つ人がわかった場合

その埋蔵金や財宝の価格の5%〜20%分を「報労金」として請求する事ができる。とはいえ、ほとんどの場合、埋蔵した本人はすでに亡くなっているので、所有権者というのは埋蔵した人の相続人ということになる。ただし、埋蔵金は誰が埋蔵したのかを証明することが難しいので、実際に所有権者が確定するケースは少なく、過去の例では全体の1割にも満たない。

埋蔵金の所有者が見つからなかった場合

この場合は発見した人と埋蔵金が見つかった土地の現在の所有者とで、埋蔵金の所有権を折半することになる。つまり、自分の土地で発見すれば埋蔵金を全部もらうことはできるが、他人の土地で見つけた場合には全部もらうことはできない。

ちなみに、埋蔵金を見つけてから7日以内に届け出なかった場合には、遺失物法の報労金をもらえる権利が消滅するので要注意。また、埋蔵金を横領してしまうと、刑法254条の占有離脱物横領の罪に問われることになる。こうした罪に問われないためにも、また嬉しいニュースを多くの人と分かち合うためにも、もしお宝を発見したらすぐに届け出をしよう。

もう1つ注意しなければならないのは「文化財保護法」との関係。埋蔵金が、歴史的に価値のある「埋蔵文化財」に指定されることになった場合、埋蔵金は国の所有物になり、発見者と土地の所有者に対して支払われる報償も、その文化財に対して国が定める価値により異なってくる。

参考資料

  • 中公文庫『日本の埋蔵金』畠山清行
  • 立風書房『日本の埋蔵金100話』八重野充弘
  • 二見書房『謎解き徳川埋蔵金伝説』八重野充弘
  • KKベストセラーズ『【秘録】埋蔵金を発見した!』八重野充弘
  • マガジンハウス『赤城黄金追跡』水野智之
  • (WEBサイト)「日本の埋蔵金」研究所
  • (WEBサイト)八重野充弘のホームページ
  • (WEBサイト)ウィキペディア フリー百科事典

ほか

※記事内容はとくに記述のあるものを除いて、2007年1月12日現在のものです。

このページの先頭にもどる

保障内容、変更、共済金請求などのお問い合わせ

CO・OP共済「ご意見・ご要望」の窓口

ご加入手続きのながれ

加入者インタビュー