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第11回 江戸時代の財政改革

〜江戸時代の経済事情をとおして見てみよう〜

財政難に苦しんだ江戸時代の徳川幕府。当時の将軍、老中たちは、改革で何とか乗り切ろうとした。どうして財政が苦しくなったのか、そしてどのような改革をしたのか、今回は江戸時代の財政改革について見ていこう。

徳川家光は浪費家だった?

財政を立て直すために、3回も大改革を行った江戸時代だが、それでも初期の頃は財政に余裕があった。当時は徳川家の天領(直轄地)が多かったので財源は豊富にあったし、徳川家康が節約して貯めた隠し財産もあったのだ。

そんな恵まれた財政状況の中、3代将軍徳川家光は、幕府の威光を周囲に示すべく、どんどんお金を使っていた。中でも、初代将軍徳川家康に敬慕の意を表するための支出が多く、日光東照宮の造営には、約57万両という莫大な費用を投じている。仮に1両=12万円として現代の金額に換算すると、この造営費はなんと684億円にもなる。また彼は、家康の三十三回忌までに10回以上も日光参詣をした。当時の日光参詣はかなり大掛かりで、先頭が日光に付いたのに後方はまだ江戸を歩いていた、というほど長い行列だったそうだ。そのため、1回の参詣を行うだけで幕府の収入の1割を消費してしまっていたという。また、家光は、当時の旗本・御家人全てに加増(ベースアップ)するなど、徳川家の直臣たちに対しても気前の良さを見せている。

しかし、このような支出を続けていて財政が保てるはずはない。5代将軍綱吉の時代には、駿府久能山(くのうざん)に隠していた金銀に手をつけざるを得ないほど財政状況は悪化していた。そこで綱吉は、財政の建て直しを考え始め、当時の勘定吟味役、荻原茂秀(おぎわらしげひで)に対策を考えさせている。これに対し、荻原は貨幣の改鋳をする案を進言する。

この貨幣の改鋳とは、簡単に言うと、既に出回っている貨幣を回収し、金の含有率を減らした貨幣を新たに出回らせるということ。当時の一両小判(慶弔小判)の金の含有率は86.2%であったが、この含有率を56.4%にまで減らした小判をつくり直し、浮いた金を幕府の財源にしようと考えたのだ。

しかしこの案では、貨幣の改鋳で得た幕府の財源がいずれは支出され、市中に通貨が出回り過ぎてインフレを招いてしまう。事実、この貨幣の改鋳を行った後はどんどん物価が上昇し、あわてて物価引下げ令を出さねばならなくなったのだ。結局、綱吉の時代には、その場しのぎの財政再建はなされたものの、経済の混乱を招いてしまったのである。

徳川吉宗が、恥を忍んで諸大名に出した通達とは

そんな中、初めて本格的な財政改革に挑んだのが、8代将軍徳川吉宗であった。彼が行ったのが江戸3大改革の一つ、享保の改革である。

この財政改革の目玉は、全国の諸藩大名に上米(あげまい)の令を出したこと。この上米の令とは、参勤交代の江戸在府期間を1年から半年に減らすので、代わりに1万石につき100石の割合で米を献上せよ、という命令。このとき吉宗が諸藩へ送った通達には、「御恥辱不被顧(おんちじょくをかえりみず)」という文言がある。つまり、将軍自ら「恥を忍んで」出した通達ということ。上米は諸藩にとっても大きな負担であったが、将軍本人にここまでお願いされてしまっては、断ることもできなかっただろう。

さらに、吉宗は抜擢人事を行い、改革に経済感覚に優れた大岡忠相(おおおかただすけ)を登用した。彼は、米価引き上げと物価引下げ、貨幣の改鋳を同時に行うことを進言している。

江戸時代の幕府の財源は米なので、米価が安定しなければ財政は安定しない。当時は、物価が上昇傾向なのに米価は下落傾向にあり、バランスを崩していた。このバランスをよくするために、貨幣の改鋳で景気を刺激しつつ、さまざまな米消費政策(※1)で、米価引き上げを狙ったのである。また、貨幣改鋳では、急激なインフレを防ぐため、できるだけ金銀の裏づけのある良貨を流通させる策が用いられた。

さらに、この頃から年貢の徴収方法も大きく変わっていく。それまでは、毎年の収穫量を実際に見てから年貢量を決める検見(けみ)法であったが、これが、過去何年かの収穫率の平均から年貢率を決める定免(じょうめん)法になった。農民は豊作でも凶作でも毎年一定の年貢を納めることになり、実質的に農民にとっては増税になった。

吉宗の改革により、幕府の財政は好転した。また、享保の改革では、目安箱の設置など、財政以外の多角的な改革も行われている。しかし、この改革は基本的に増税主義だったので、農民が痛みを味わう改革だった。また、享保の大飢饉以降は米価が乱高下することもあり、次第に改革の成果が薄れていった。

※1 さまざまな米消費政策
それまでの幕府は、飢饉などに備えてなるべく米を消費せず、高く売買したり架空取引したりすることを禁止していたが、享保の改革ではこれを逆手にとった。酒造制度を認め、大阪堂島に米市場をつくって米の空売りを認め、酒造する者に幕府の公的資金を融資するなどした。また幕府が率先して米を買って置米し、大名や商人にも米備蓄を命じて、大量買付けで米価上昇を狙った。

反発必至!?の強力引き締め策 寛政・天保の改革

吉宗の後、江戸後期には寛政の改革、天保の改革が行われるが、2回ともあまり成果が上がっていない。

天明7年(1787年)、老中に就任した松平定信が行ったのが寛政の改革である。それまでの老中・田沼意次は重商主義をとっていたのだが、松平定信は、華美に走りがちだった田沼政治を裏返して伝統的な重農主義をとった。乱れた風紀を正し、徹底した綱紀粛正を図ることで改革しようと考えたのである。

この改革では、旗本・御家人の札差からの借金を減らす棄捐令(きえんれい)(※1)、特権商人を抑制するための政策(株仲間(※2)の解散等)などが行われた。また、旧里帰農令(きゅうりきのうれい)(※3)で農村人口の増加を狙った。しかし、大規模な改革政策にもかかわらず、成果はあまり見られなかった。また倹約や規制を強いられた武士や町人からの反発も大きかった。

最後の改革は、天保5年(1834年)に老中に就任した水野忠邦による天保の改革である。人返し令、株仲間政策、金利政策などを行い、財政の再建を目指した。この改革の目玉は上知令(あげちれい)。これは、江戸や大阪の周りの大名・旗本の領地を幕府の直轄地とし、地方に分散していた直轄地を集中させる政策。しかし、この上知令は大名や旗本、さらには将軍家慶からも反対され、撤回するに至った。

この改革では、過去2回の改革を手本に綱紀の粛正がはかられているが、このときは、過去に例のないほど厳しい禁止令が出されている。内容は次のとおりだ。

<禁止令エピソード>
禁止令が発令されると、江戸の奉行所では取り締まりの人員を増強した。その数は南町奉行所で26名、北町奉行所では30名。禁止令違反者の摘発には公設遊郭で働く男150名をスパイとして用い、地方にまで隠密が放たれた。 天保13年2月には大規模な一斉摘発が行われている。販売禁制品を売った罪で、袋物屋5軒、鼈甲屋3軒、キセル屋4軒、呉服屋、下駄屋、笠屋各2軒、雛人形店、人形店、傘屋、半襟屋、寿司屋、菓子屋など各1軒の計26店が踏み込まれ、店主らは手鎖をかけられて町内預けの罪に処せられたという 。

身につける着物やアクセサリー、普段食べるお菓子や料理にまで干渉するとは驚きだ。これでは何を楽しみに生活すればよいのか、と首をかしげたくなってしまう。しかも、街にはスパイが放たれ、禁止令を破る者を厳しく取り締まり、その勢いは恐怖政治と言えるほどだった。禁制の帯を着けていた若い女性の着物を平気で人前ではぎとってしまう、ということもあったらしい。

結局、上知令の失敗、庶民の反発などで、天保の改革は成果もなく失敗してしまう。そして、経済が混乱を続けたまま、時代は幕末へ突入していった。

※1 棄捐令

米相場を操作している承認を追放し、幕府自らの手で米を管理しようと考えた松平定信が、札差つぶしを狙って発令した。旗本、御家人が札差から借りた金のうち、6年前以前に借りた分はご破算、また5年前までの借金の返済利率は低利で年賦払いになった。

※2 株仲間

問屋などの集団で、当初は自主的に作られたが、享保の改革で江戸幕府に公認された。冥加金(上納金)を納める代わりに、販売権の独占などの特別な権利を認められた。

※3 旧里帰農令

江戸へ流入した農民に帰農を促して、農村人口の拡大を狙った政策。国元に万石以上の領主がいる帰農者には旅費を支給するなどした。

幕府の体力はなぜ弱体化したのか

結局江戸時代は、3度も改革を行ったものの、それなりの成果を出すことができたのは享保の改革だけで、その後の財政状況は改善することがなかった。この原因は、家光時代の浪費もあるが、幕藩体制を維持するのに相当の費用がかかっていたということも大きい。たとえば、季節の行事の費用や、家臣へのボーナスなど、財政状況に見合った支出にすればよいのだが、幕府、大名、旗本とも、武士は家格を維持しなければならず、節減することができなかったのである。こうした武家社会の制度改革にメスを入れられなかったことが、幕府の体力を弱める結果を招いたようだ。

また、当時は、豊作凶作に左右される“米”中心の経済であったため、総合的な財政再建策がとりにくかった。ここに江戸時代の改革の限界があったともいえるだろう。

では現代はどうだろう。今、国の財政は赤字だが、財政再建の政策は、経済情勢全般に配慮して総合的に実施されるのが原則だ。そして、江戸時代と現代との大きな違いは、納税者である国民が、改革に対しても、国の歳出に対しても、選挙を通じて、お上に物申すことができること。これは封建社会と民主主義社会の大きな違いだ。

財政の弱体化が、徳川幕府の終焉につながったともいえるが、徳川家光がもう少し節約していれば、あるいは、もっと制度改革がなされていれば、その後の展開はもう少し違っていたのかもしれない。そう考えると、今の納税者も、国の歳出や財政政策に関心を払っていく必要があるともいえるだろう。

<コラム>賄賂政治家?田沼意次への再評価
日本の歴史の中で、最も金に汚い政治家の1人、賄賂政治家、などと悪評を受け続けてきた老中・田沼意次。確かに、彼が政治の実権を握っていた時代、田沼の屋敷の前には、常に賂を持参した大名家臣などの陳情の行列があったという。「政治には金がかかる」と割り切って考えた彼は、堂々と賄賂を受け取っていた。その結果、政治は金銭的に腐敗していった。これが彼の悪評を高めてきた所以である。

とはいえ、彼は優れた経済感覚を持った政治家であり、第9代将軍家重、第10代将軍家治の信任も厚かったという。

彼の政策は、商業の発展を重んじる“重商主義”で、倹約や引き締めの政策はとらなかった。たとえば、都市経済の刺激のために株仲間を増やし、幕府の財政の基盤となる諸藩経済を支える貸付金制度を設けた。また、海外の金、銀を確保するために長崎貿易を促している。こうした政策は、農産物の商品化を活発にして農民の生産意欲を向上させた。また、情報統制をしなかったことから文化も発展し、平賀源内、杉田玄白などの学者もこの時代に多く輩出していった。
天明の飢饉、江戸の打ちこわしなどをきっかけに、田沼意次は老中を失脚し、その後は寛政の改革で、極端な引き締め策が始まる。その結果、田沼時代に確立していた流通や金融の機構が混乱し、武士や町人の不満を招いてしまう。

米中心から金中心の商業経済への移行、資本主義的な手法などは、当時としては異例の政策であったが、ある意味、田沼に先見の明があったともいえるのだ。こうした点から、近年、田沼意次の評価は変わりつつある。

参考資料

  • PHP研究所『目からウロコの江戸時代』武田櫂太郎
  • 実業之日本社『大江戸「懐」事情 知れば知るほど』小林弘忠
  • 日本文芸社『数字で読むおもしろ日本史』淡野史良
  • 勉誠社『徳川吉宗と大岡越前守』歴史と文学の会
  • (WEBサイト)ウィキペディア フリー百科事典

ほか

※記事内容はとくに記述のあるものを除いて、2007年2月5日現在のものです。

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