発掘!お金の話

詳細はこちら 資料請求・ご加入に関するお問い合わせ 0120-497-775

第6回 家康の天下統一は、通貨統一のはじまり

〜江戸庶民が使いこなした「三貨制度」〜

今から400年ほど前、“関が原の戦い”(1600年)で、石田三成の西軍を討ち破った家康は、天下統一と同時に、国内通貨の統一にも着手した。戦国時代にはさまざまな通貨が乱発されていたため、政治の根本となるお金を早く統一し、信用を高めたいという狙いがあったようだ。現在、国内では皆が当たり前のように同じ通貨を使っているが、その基礎が築かれたのは、実は江戸時代である。

金貨、銭貨は枚数、銀貨は重さが価値を示す

江戸時代のお金といえば、テレビの時代劇に出てくるような、金ピカの小判や、穴の開いた小さな銅銭を思い出す人が多いだろう。江戸時代には、「金貨」「銀貨」「銭貨」の3つの貨幣が並行して流通していた。

金貨の単位は両(りょう)、分(ぶ)、朱(しゅ)で、一両の1/4が一分、一分の1/4が1朱である。現在の私たちの通貨は、1円が10枚で10円、10円が10枚で100円という具合に“10進法”が使われているが、江戸時代の金貨は、4で位がひとつ進む“4進法”だった。金十両の大判という金貨もあったが、これは恩賞用・献上用に特別に作られたもので、通貨として流通していなかった。

金貨が、額面金額と枚数で価値を示す「計数貨幣」であったのに対し、銀貨は、匁(もんめ=3.75g)という重さの単位で価値を示す「秤量(ひょうりょう)貨幣」で、まったく性質の違う貨幣だった。江戸時代初期の銀貨は、丁銀(ちょうぎん)・豆板銀(まめいたぎん)だが、このうち丁銀は43匁。銀貨は、これに豆板銀などを加えて、秤(はかり)で計って使っていた。

銭貨(銅貨)は、金貨と同じ計数貨幣で、その価値は、徳川幕府の初めに小判一両の4000分の1と定められた。バラでも使えるが、百枚単位で穴に紐をとおしてまとめて使われ、1000枚で1貫文(かんもん)だった。

上方では、強い経済力をもつ商人達が古くから中国との貿易を銀塊で行い、重さを計って使う秤量銀貨の使用が習慣になっていた。当初家康は、金貨を中心に貨幣制度を統一しようと考えていたのだが、すでに上方で浸透していた「銀遣い」の習慣を変えることができず、こうした事情を背景に、結局、金貨、銀貨、銭貨が並存する「三貨制度(さんかせいど)」がスタートしたのである。

両替も大変!金貨、銀貨、銭貨の変動相場制

こうした金貨、銀貨、銭貨は、一万円札・百円硬貨・一円硬貨のような関係ではなく、単位の違う通貨、例えば円とドルとユーロのような関係だった。こうした異なる3種類の貨幣が、国内で並存して流通していたのが「江戸三貨制度」の特徴で、「円」で統一されている現代の貨幣制度とは、かなり異なる感覚といえるだろう。

徳川幕府が初めに定めた公定相場は、金一両=銀60匁=銭4000文で、初めはこの相場で換算されたが、次第に変動相場になり、時代によって価値が変動するようになった。

つまり三貨制度は、一つの国内で単位の異なる3つの貨幣が、変動相場で換算され並存しているという、とてもややこしい制度だったのだ。これは、世界でもめずらしい、江戸時代の日本に特有のものといわれている。

地域的な特徴としては、「東国の金遣い、西国の銀遣い」といわれるように、小額貨幣として広く全国に浸透していた「銭貨」を除けば、東日本では金貨、西日本では銀貨が使われるのが一般的だった。そのため、離れた地域間での商取引や旅行では、金貨、銀貨、銭貨の交換が必要になる。こうして江戸時代には、その時々の相場で貨幣の交換を行う「両替商」も大いに発達した。

江戸では、金貨、銀貨、銭貨の3種類の貨幣が流通していて、買う品物や場所によって使い分けていた。例えば、湯屋の入浴代や髪結代には銭貨を使い、まとまった賃金をもらったり、上方からの「下りもの(※)」を買うときは銀貨を使った。また、両替をしたりおつりをもらったりする場合では、金貨、銀貨、銭貨の換算比率の相場を把握していないと損をすることもあった。とはいえ、江戸の人々は武士や商人に限らず、誰でもこのくらいの換算をしながら、普段の暮らしを営んでいたのである。

※ 下りもの・・上方(京大阪)で生産され、江戸に運ばれくる品物のこと。「下りもの」は高級品の代名詞で、「酒」「醤油」などは、江戸で高級品扱いされた代表的な「下りもの」である。反対に、江戸周辺の産物は「下らない」もの、つまり下級品ということになっていた。ちなみにこの「下らない」は、今でいう「くだらない」(価値がない、つまらない)の語源といわれている。

それぞれの貨幣の鋳造をした、金座・銀座・銭座

現在のお金は、印刷局、造幣局で作られているが、江戸時代にはそれぞれの貨幣を鋳造する金座・銀座・銭座があった。

金座は江戸のほか駿府、京都、佐渡にもあった。江戸の金座は、“両替町”と呼ばれた場所で、現在の日本橋本石町、常盤橋の東側にあった。現在は、金座の跡地に日本銀行本店が建っている。

銀座は、もともと駿府(静岡市)にあったものが、1612年(慶長17年)に江戸の京橋南詰に移されたほか、京都、大阪、長崎にもあった。1800年(寛政12年)には寛政の改革のため、これら4銀座は廃止されたが、その後、江戸の銀座が日本橋蠣殼町(かきがらちょう)に移されて再興された。京橋南詰の銀座があった地域は、金座が“両替町”であるのにあわせて“新両替町”という地名になった。現在の東京“銀座”の地名は、最初の銀座があったことに由来するのだが、東京の銀座が正式な地名になったのは明治2年のことだ。

寛永通宝などを作った銭座は、幕府直轄の事業ではなく、いわゆる民間委託方式の貨幣鋳造所だった。これらの銭座で作られたお金は、幕府に納めるのではなく売却されていたという。

一両は現在の何万円くらいの価値だった?

では、時代劇などでよく見かける小判1枚、つまり一両は、今のお金に換算するといくらぐらいになるのだろう。実は、これを推定するのは非常に難しい。というのも、当時と現在ではあまりにも生活が異なっているので、物の値段や価値を単純比較することができないからだ。

一応の目安として、江戸時代中期の一両を、当時と今のそば代金をもとに換算してみると、当時のそば一杯が16文前後だったことから、だいたい1両が12〜13万円くらいと試算することができる。ただし、米価や職人の手間賃などから試算すると、同時期でも30万円以上もの差が出るので、一概に“円”に換算することは難しい。ただ、一両というのはやはりかなりの高額で、庶民が一両小判を目にすることはめったになかったということだ。

参考資料

  • 日本銀行金融研究所貨幣博物館 配布資料
  • PHP研究所「目からウロコの江戸時代」武田櫂太郎
  • 実業之日本社「大江戸八百八町 知れば知るほど」石川英輔
  • 国土社「おもしろ日本史入門5 お金でさぐる日本史U」松崎重広
  • 東洋経済新報社「江戸の貨幣物語」三上隆三
  • (WEBサイト)貨幣博物館ホームページ
  • (WEBサイト)銀座コンシェルジュ

ほか

※記事内容はとくに記述のあるものを除いて、2006年9月7日現在のものです。

このページの先頭にもどる

保障内容、変更、共済金請求などのお問い合わせ

CO・OP共済「ご意見・ご要望」の窓口

ご加入手続きのながれ

加入者インタビュー